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藤の屋文具店

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こんにゃく問答と反骨精神


 古典落語に、「こんにゃく問答」というのがある。無学なおっさ
んが偉い坊さんと禅問答をやるはめになって、坊さんのほうが、お
っさんの仕草を素晴らしい解答であると勘違いして降参してしまう、
そういう噺である。年配の人が、所詮学問などというものは、とい
うスタンスで説教の引き合いに出すので、聞いたことのある人も多
いだろう。

 この噺は、多くの場合、無学のはっつぁんくまさんが偉い坊さん
を言い負かしてしまうという部分にカタルシスを覚え、現代の社会
でいうならば、東大卒のエリートなんかより高卒の庶民のほうがよ
っぽどしっかりしてるわい、そんな教訓のようにしか解釈しようと
しないものである。しかし、そういうコンプレックスや怨嗟をそっ
と横に置いて冷静に眺めるならば、この噺には、また別の面も見え
てくる。

 せっかく教養のある徳の高い坊さんとマンツーマンで対話をする
機会に恵まれ、含蓄のある問いかけを受けることが出来たにもかか
わらず、このおっさんは、自分の教養の低さゆえに、そこから何も
汲み取ることができず、言い負かしてやったわいと良い気分になる
ばかりで、何の進歩もなかったわけだ。まったく無駄な一日だった
わけである。

 一方、坊さんにとっては、相手の身振りの中から己の問いに対す
る素晴らしい解を得、日々の修行ですら到達し得なかった哲学的な
高みへと、一歩登ることができたわけで、おそらく彼にとっては、
問答の勝ち負けなぞ取るに足らぬちっぽけな勲章に過ぎず、とても
満ち足りた有意義な一日を過ごしたことだろう。

 我々の日常でもここまで極端ではないにせよ、同じようなことが
おこるわけで、常に何かに心を向けている人は、どんなにくだらな
い人との対話や共同作業の中にでも、何らかの疑問の回答を得て自
分の知識や教養を深めることができるけれども、ただ漠然と日々を
すごし、自分より教養のある人を妬んで小馬鹿にする程度の人は、
幸運にも素晴らしい知識や経験に触れる機会があっても、その真の
価値に気づくことが出来ずに、何の進歩もない寂しい日々を、幼稚
な自慢の中で過ごす事しかできない、そういうことになるのかも知
れない。

 有名な全国版の大新聞の投書欄には、いかに自分の町の住民がバ
カでマナーの悪いオタンコナスであるかをとうとうと述べ、自分は
こんな愚か者の集団とは違う存在なのだと叫ぶ意見が、毎日毎日あ
ほぅのひとつ憶えのように満載されているけれど、このような人た
ちは、周囲の人たちの示すいろいろな行動や言動の中に、あったか
も知れない素晴らしい真理を、きっとすべて見逃してしまっている
のだろう。

 たぶん、あいまいなもの、どうとでも解釈できるものごとに直面
したとき、人は、自分を基準にしてそれを計ろう、理解しようとす
る傾向があるのだと思う。鯛しか知らぬ人は、「おおきな魚」と聞
けば鯛を思い浮かべ、ジンベイザメを知る人はそれを思い浮かべる。
 こんにゃく問答を聴いてあははと笑い、そこからエリートを馬鹿
にすることしか汲み取れぬ人は、たぶん、エリートに、心の奥底で
は白旗を掲げ、自分はとうてい太刀打ちできぬと、自分自身に失望
しているだけの人で、そこにあるのは、反骨精神だの雑草の強さだ
のといった逞しいものではなくて、絶望と怨嗟と嫉妬の混ざった、
ひ弱な精神なのであろう。

 権力や権威に振り回されないためには、自分自身の中に、それに
代わる確固たるものを持つ必要があるわけで、心の中は誰にも測定
できないからこそ、自分自身できちんとしなければ、それはただの
思い込みや錯覚へと成り下がる。学生運動や新興宗教や市民運動を
得意げに語る者の多くを見れば、いかにそれが困難なことであるか
を、現実として見る事が出来る。何の訓練も己に課さぬ怠け者が、
お経を真似てつぶやくだけでは、できるのは、問答に勝ったと得意
になって、馬齢を重ねることだけなのであろう。





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